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2021/3/21 Part3「富と成功についてのクリスチャン的な追い求め方」    

聖書 ヤコブ1:27~2:13  中心 ヤコブ2:8~9  ジェシー・ローズ師

神様にささげられた初穂としての生き方は、弱い立場の人たちに憐れみを示す生き方、この世の考え方、価値観、行動によって汚されないでいる生き方です(ヤコブ1:27)。この世の価値観や方法で成功を求める生き方に警告を発しています。自分の心を再評価する機会が与えられています。

1.さばきを与えることとさばきを受けること  ヤコブ2:1~4

この時代は後見人の社会でした。後見人になる人(お金持ちなど)と関係を築き、利益を得るために仕え、そうでない人は見下します。ヤコブはそのような考えを持っている聴衆を叱りました。すべての人は神のかたちにイメージしてつくられ、お金で買うことができるものよりはるかに貴い存在なのです。

 私たちは自分に何か良いことをしてくれる人、価値を高めてくれる人を周りに置きたいと思います。反対に自分から何かを奪っていくような人、何も返してくれないような人からは遠ざかろうとします。私たちはえこひいきをし、さばいてしまっているのです。

 「隣人を愛しなさい」というのは、聖書の中で最も繰り返し命じられている命令です。これはえこひいきをしてはいけないということに限定されているのではありません。仕事のゆえに同僚を傷つけるなら、隣人を愛していることにはなりません。欠陥商品であると知りながら販売するなら、隣人を愛していることにはなりません。成功を求めるあまり家族を傷つけるなら、隣人を愛していることにはなりません。他の人を利用し、足を引っ張ることによって成功するなら、あなたはこの世の方法に従ってしまっているのです。私たちはみな利己的な存在であり、神様のさばきを受けるにふさわしい者です。

2.憐れみを受けることと、憐れみを与えること  ヤコブ2:13

パウロとヤコブは不一致ではないかと思う人がいます。ヤコブは行いによって救われると教えているではないか(2:13)、パウロは信仰によって救われると教えているではないか(ガラテヤ2:16)。

ヤコブはこの後、信仰と行いの関係について詳しく書いています(2:18)。信仰によって救われるという信仰は、信仰が生み出す行いによって必ず表現されるものです。この順番は大事です。私たちは憐みを受けるために憐みを与えるのではありません。私たちが憐みを与えるのは、わたしたちが憐みを受け、憐みによってすでに変えられたからです。十字架の愛に対する応答として、私たちは隣人を愛しているのです。

「彼らは何もわたしに与えないし、何も持っていない」、イエス様はそう言うことができたはずです。私たちは確かに何もイエス様にささげるものはないし、やっていることは罪を犯すことだけです。しかし、そのような私たちのために、イエス様は喜んでご自分の命を、愛を、憐みを注ぎ出してくださいました。イエス様のゆえに「憐みはさばきに打ち勝つ」と言うことができるのです。

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