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2021/4/25      「神の試練と神の愛」     松尾 献主事

聖書 創世記22章1~14節   中心 創世記22章14節

「神がアブラハムを試練にあわせた」(1)。この試練は神様が意図して与えたものです。アブラハムは本気でイサクをささげるつもりでした。アブラハムの心には葛藤があったことでしょう。人は試練に出会うと孤独を感じます。誰もわかってくれない、神様さえ沈黙される。しかし、アブラハムが苦しむ背後で、イサクも一緒に苦しみを負っていたのです。

私はある時大きな試練に会いました。一人で苦しんでいたと思っていた背後では、多くの人の祈りによって支えられ、試練を一緒に負ってくれる仲間がいたことを知りました。私は一人ぼっちではなかったのです。

 アブラハムにとって突然襲ってきたように思える試練でしたが、神様はすでに備えを用意されていました(13)。神様の備えは羊だけではなく、祝福が記されています(16~18)。それは「あなたがこれを行い・・・」、「わたしの声に聞き従ったから・・・」、アブラハムの従順によって与えられました。イサクをささげよと言われた時、彼は初めて神様に従いたくない自分がいることに気づきました。神を愛すると言いながら、神よりも大事なものを持っている自分に気づきました。試練を通して自分の欠けを知り、もう一度神様に信頼することを学び始めたのです。神様に明け渡していく時、神様が用意された多くの恵みに出会っていきます。

試練の時「神様、あなたはどこにおられるのですか」と叫ばずにおれないでしょう。アブラハムの試練の時、神様はどこにおられたのでしょうか。浮かんでくるのは十字架のシーンです。愛するひとり子が罪人の一人に数えられ、無残な姿で磔にされた時、父なる神はわが子が苦しむ只中におられたのです。愛するわが子の苦しみや葛藤や痛みは、父なる神ご自身の痛みや悲しみ、葛藤だったのです。アブラハムの苦しみを神様はご存知でした。私たちの試練の先にも必ず神の備えがあるのです。

私たちも試練を経験します。試練の只中に、神様は私たちと一緒に歩んでくださっています。それだけではなく、イエス・キリストの十字架の先に、イエス様を信じることによって救われるという「アドナイ・イルエ」という備えがあるのです。

 私は大学時代、小学校の教員になることが夢でした。信仰のゆえに教師の夢を失った時、辛くて何度も泣きました。“神様がいるのになぜ? あなたに従ったのになぜ?”しかし、そこに確かに神様のアドナイ・イルエがありました。神はおられるのかと思うその中に、確かに神はおられたのです。試練を通して私は神様の大きな愛を知りました。 私たちの人生には様々な試練があります。辛くて登りたくないような山もあります。一日経っても二日経っても、長年祈っているけど、神様は沈黙されているように思えることがあるかもしれません。しかし、私たちの試練を誰よりも理解してくださっている神様が、試練を通して、私たちに必ず備えを用意されているのです。神様は今日も私たちと共におられます。アブラハムが試練を通ってこそ入った神様との深い関係がそこにあるように、私たちにもそこに神のアドナイ・イルエがあります。この山に私たちも登ろうではありませんか。主は今日も私たちと共におられます。

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