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2021/5/16 「十字架とは何か?」

加藤雄太郎師(シンガポール宣教団体『Thinking Faith』講師)

聖書 ルカ2章28~35節  中心 イザヤ49章13~16節

 イエス・キリストがなぜ十字架にかかったのか、十字架にはどのような意味があるのかについて、みなさんとご一緒に考えてみたいと思います。キリストは生まれる前から、世界を救う存在だと預言されていました(ルカ2:28~32)。マリアに「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります」と預言されています(34~35)。

 私はつくづく母の愛は偉大だと思います。小学生の頃、病気で学校に行けず、悲しくて家で泣いていました。母も泣いて「辛いね。代わってあげたい」と言いました。母は自分が苦しむよりも、自分の子どもが苦しんでいるのを見るほうがもっと辛かったのです。

 マリアもわが子イエスが苦しむのを見て、本当に心が剣で刺し貫かれたように感じたと思います。イエスは十字架で死にました。その無残な姿は、まさに神に見捨てられてしまった者のようでした。私たちも神に見捨てられたと思い、叫びたくなるような時があるのではないでしょうか。私たちの苦しみは、直接自分自身の罪によって引き起こされることもあれば、他の人の罪によって生み出されるものもあります。いずれにしても私たちの苦しみの根本的な原因は、私たち人類の罪によるものだと聖書は言います。

 そんな私たちの姿を見て、神様は心を痛め悲しまれます。「義人はいない。一人もいない」。私たちは神様に見捨てられて当然の存在ですが、神様が見捨てたのではなく、私たちが神様から離れて行ったのです。神様から離れて、その罪の結果として苦しみ、傷つき、滅びるのです。神様はこんな私たちを本当に見捨ててしまったのでしょうか。その答えは十字架の本当の意味を通して明らかになります。

イザヤ49:15-16で神様は人間に対する愛を母親の愛と比べています。母の愛でさえ神の愛にはかなわないと記されています。この世界を造られた全知全能の神、この無限の存在の手に私たちが刻まれているのです。「刻んだ」はヘブル語では「金槌と釘で刻む」という意味です。それは十字架を思い起こさせます。マリアは十字架の上で苦しむイエスを見た時、代わってあげたいと思ったのではないでしょうか。しかし本当は逆でした。神様は私たちを深く愛され、罪に苦しみ、滅びに向かうのを見て、「わたしが代わってあげたい」と思われました。神様は人間の姿となって私たちの代わりに罪を背負ってくれました。マリアがイエスの代わりになるのではなく、イエスがマリアの、私たちすべての身代わりになったのです。イエス・キリストの手の傷を思い起こす時、私たちは神様に愛されていることを知ります。十字架は神様の愛のしるしです。

 愛する者に、自分の愛を疑われてしまうのは辛いものです。私たちをつくり、日々食べ物を与え、今日まで守ってくれた神様、罪から救うために十字架で死ぬほどに愛してくれている神様です。これほどまでに愛しているのに、私たち人間に「主は私たちを見捨てた」と、その愛を疑われた神様の胸の内は想像すらできません。神様は私たちを一度たりとも忘れたことはありません。私たちも神様を忘れることなく、神様を信じ、愛し、神様に喜ばれるような生き方をしていきたいと思います。

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