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2021/7/4                「主が喜ぶ礼拝」             松尾献主事

聖書 ルカ17章11~19節  中心 ルカ17章17-18節

ツァラアトが人との関係、自分との関係、神様との関係を歪ませていったように、私のうちにも深刻な何かがあります。聖書はその症状を罪だと教えています。彼らのイエス様への必死の叫びは私の叫びだと思わされました(13)。イエス様の言葉の通りに、祭司のところに行く途中で癒されました(14)。二つの応答が出てきます。

その1、真っ先に祭司のところに向かっていくタイプ

 神様に感謝していながらも、やりたいことがあって足を止めませんでした。大切なのは私たちの思いではなく神様が何を喜ばれるかです。

その2、まずイエス様の足元にひれ伏したタイプ

イエス様は引き返して礼拝したサマリア人を喜ばれました。イエス様は犠牲を払って目を留め(11)、癒しを与えてくださいました。ふさわしくない者が恵みを受けたから、彼はイエス様を礼拝したくてしょうがなかったのです。

 私たちは神様の愛を受けて当然と言える者でしょうか。私たちが神様を忘れたとしても、救いを取り消したりせず、今日も変わらず私たちの存在を喜び、愛してくださいます。

彼が引き返した時、イエス様は待っていました。イエス様は他の九人のことも心にかけて待っていました(17-18)。みなさんはどちらの礼拝者ですか。九人の礼拝者だったとがっかりして終わるのではありません。あなたが神のもとへ引き返して心から礼拝するのをイエス様は今日も待っています。あなたのことを忘れていないのです。

 イエス様はサマリア人に「立ち上がって行きなさい」(19)と日常生活に送り出しました。イエス様は彼の地上の生活を気にかけてくださったのです。会いたい人、やりたいことがあったと思います。神の言葉をもって送り出してくださいました。神様は霊的なことにだけではなく、日常生活の具体的なことも気にかけてくださいます。

「あなたの信仰があなたを救ったのです」(19)。ツァラアトに冒された人は何か罪を犯したと思っていたでしょうし、周りからもそう言われ、自分は神様に喜ばれる信仰がないと思っていたでしょう。しかし、彼がイエス様のもとに行った時、あなたには信仰があると言われました。この言葉はどれほど慰めになったでしょうか。イエス様はこの言葉を遠く離れて行ってしまった九人にも語りたかったのではないでしょうか。「九人はどこにいるのか」。

 九人のようにイエス様から遠く離れ、自分のことばかり考えて歩んで行ったとしても、あなたが今日イエス様のもとに引き返し、神の恵みを思い巡らし、感謝して礼拝をささげるなら、サマリア人の信仰を喜んだように、あなたの小さな応答にも目を留めて喜んでくださいます。そして「立ち上がって行きなさい」と神の言葉をもって、あなたを日常に送り出したいと願っている神様なのです。私たちは今日も神様のもとに引き返していいのです。そしてあなたが心と体をもって神を喜び、礼拝する時、イエス様は今日のこの礼拝を本当に嬉しいと受け取ってくださいます。

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