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2021/8/15       「コイノニア(交わり)」   ジェシー・ローズ師

聖書 ピリピ1章1~11節   中心 ピリピ1章9-11節

アスリートは一人で戦っているように見えますが一人ではありません。周りには犠牲を払い、投資する人たちがいます。選手の傍らに立ち、一人では決して到達できないようなことを一緒にやり遂げるのです。このような一体感、目的を共有するコミュニティこそが聖書の言うコイノニアです。

1.コイノニアの本質 

 コイノニアのシンプルな定義は「交わり」です。懇親会のような交わりを指すのではなく、深い意味でのコミュニティ意識のことに用います。このコミュニティは獄の壁にも距離にも遮られることはありません。パウロは苦しい時に一人ではないことを知っていました。これがコイノニアです。コイノニアはキリストの愛によって影響を受けた人々が、キリストの愛と心をもって誰かの傍らに立つことです。神様はあなたに誰かの傍らに立ってほしいと願っておられます。その人のそばに行って、その人を愛し、支えてほしいと願っておられます。

2.コイノニアの問題、課題

 パウロは愛が満ちて溢れ出るようにと祈っています(9-11)。また大切なものを識別できるようにと祈っています。ピリピ教会のコイノニアはパウロにたくさんの良いものを与えていますが、教会内の人に対してはコイノニアを提供するのを失敗していました。

ピリピ書の後半を読むと教会は内部において分裂しています。外から見たらとても良い教会に見えます。しかし内部は自己中心性と不一致の病に冒されていました。彼らは互いに争っていて、愛し合い支え合っていませんでした。コイノニアのどこかが間違っていたのです。私たちは深い関わりを持たない人に対してコイノニアを提供することはできると思います。しかしいつも会っているクリスチャンに対して、一貫して継続的に愛や犠牲を払うことはとても難しいのです。

コイノニアは自然に出てくるものではありません。愛することが難しい人を自分の力で愛し続けるのは容易ではありません。愛し続けるには特別な力が必要です。

3.コイノニアを実践するための力

 パウロの言う「義」は私たちが良い働きをして獲得する義ではありません(11)。私たちは自分自身の罪の牢獄にいる無力な存在です。イエス様はその獄に入って来て、究極のコイノニアを持ってくださいました。イエス様は傍らに立つだけではなく、身代わりとなって十字架にかかり、愛を注ぎ出してくださいました。イエス様の犠牲と愛によって私たちは自分では絶対に獲得することのできない義をいただいたのです。

愛は知識、識別力によって豊かになるとあります(9)。何を知るのでしょうか。イエス様がしてくださったことです(2:5-7)。パウロはピリピ教会の人たちにイエス様と同じ思いを持ってほしいと願いました。またパウロは、キリストの愛を周りの人にどのように適用していくのか、それを識別する力を与えられるよう祈りました。パウロは福音を受け入れる時に彼らの内に愛が溢れること、そして福音が彼らの人生にやがて実を結んでいくことを知っていました。それはコミュニティの中においても起きます。私たちに対する神様の愛を知り、キリストの愛を経験する時、私たちの心は満たされ、愛が溢れ出し、他の人に分かち合っていくのです。そうすることで私たちは実を結んでいくのです。

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