Menu

0 Comments

2021/9/5  「今あるすべては神のもの」  松尾献主事

聖書 ルカ2章41~52節    中心 ルカ2章51節

 今あるものは神様からのものだという視点を明確に意識し、贈り主なる神様を見上げていく時に、私たちの態度や生き方は人生を豊かにします。しかし、何か特別なことや危機がない限り、今あるものは神様から与えられたものだという意識は薄れていきます。

マリアは神様から与えられたという意識を持たざるを得ない特別な経験をしました(1:26-35)。神様から与えられた子どもを神様の前にふさわしく、大切に育てようと思ったことでしょう。いつしかマリアの中に、この子は神様から与えられたという思い以上に、私の愛する子という思いが強くなっていきました(ルカ2:48)。

私たちは歳を重ねる中でいろんな勘違いをし、自分の力で生きているような感覚になっていきます。神の介入を信じられないと、自分一人で人生を切り開かなくてはというプレッシャーに襲われます。神様は今日もあなたを愛し、必要なものを喜んで与えてくださる神様です。問題はその場所に神様というお方を忘れることです。不安や心配や怒りが起きるのは、その事柄を心に握りしめ過ぎているからかもしれません。私たちの人生を覆ってくださり、必要なものを与えてくださる神様が今日も一緒におられることを心に留めたいのです。神様は試練の時、苦しみの時に、私たちを養ってくださらないはずがないのです。

 マリアはイエス様の言葉(2:49)を心に留めました(51)。イエス様の言葉を全部理解できたわけではありません(50)。しかし愛するわが子を握り締めていた人生を手放していったのです。イエス様が十字架にかかる時、マリアはその足元にいました(ヨハネ19:25-27)。必死に止めるのではなくただ見届けています。愛するわが子を贈り主である神様に任せました。その信頼は空しく、目の前で愛するわが子の命は取り去られました。理解できなかったと思います。

 私たちも神の愛と支配を信じるからこそ理解に苦しむことがあります。私を愛しているならなぜ、と思うことがあります。マリアは神の愛と十字架のわからない出来事を経験しました。このストーリーには続きがあります。三日後にイエス様はよみがえられました。復活の主と顔と顔を合わせた時、マリアは歓喜の涙を流したことでしょう。絶望に思えたイエスの死には大きな意味がありました。イエス様を信じることで私たちも天の御国に入れられるという救いの道筋です。一見理解できない事柄の先に、神の深い知恵と愛がありました。ここを通らなければ得ることのできない祝福がありました。復活したイエス様と会った時は、理解できなかった悲しみの現実と神の愛がマッチした時でもありました。

私たちの人生にも同じことが起きます。私たちの人生にも続きがあります。今抱えている、かつて抱えていた「なぜ?」、私たちはそのストーリーのエンディングをまだ見ていません。エンディングは、私たちがイエス様と顔と顔を合わせるその時です。そして最後には必ず神様をほめたたえる時が来ます(黙示録21:1-4)。涙をことごとくぬぐい取ってくださいます。今あるものは神からのもの、神様が必ず最善に導いてくださると「神の支配と愛」を信じて生きる時、私たちの日常に希望の光が差し込みます。神様はこの豊かな歩みに引き戻そうとして、今日も私たちに語りかけます。わたしに信頼しなさい。愛するわが子よ。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」今日もこの神様のご支配と愛に信頼して歩んでいきたいと思います。

タグ: