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2021/12/5 「その名はイエス」  松尾献主事

聖書 マタイ1章18~25節   中心 マタイ1章21節

1.葛藤するヨセフ 1:18~20節

当然与えられると思っていた結婚の祝福、幸せが突然失われました。事実を否定したい気持ちや怒り、葛藤、いろんな感情が入り乱れたことでしょう。誰にも打ち明けられず一人で悩み、祈っていたことでしょう(20)。 

2.語る神 1:20 「ダビデの子ヨセフよ」

・全てを治める神 何千年も前から神様が計画され、語られてきた約束が成就した時でした。ヨセフにとっては突然の試練でしたが、ヨセフの思いをはるかに超えた神様のご計画が、彼の人生の上にすでにありました。

・名を呼ぶ神、全てを知っておられる神 神様はヨセフの全部を知っていました。誰にも言えず、誰にもわかってもらえないと思っていた苦しみや葛藤を神様だけは知っていました。「恐れないで」と言われたのです。

3.自分の罪を知ったヨセフ

マリアを妻として迎えることを恐れるヨセフは、自分の愛のもろさに気づいたでしょう。愛を全うできない本当の自分に出会いました。マリアと結婚したら愛のない自分に向き合い続けることになります。愛することの限界、赦すことの限界、完全な愛なんて持っていない自分です。「義人はいない。一人もいない」「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない」。聖書が言う罪は、神様が願う愛の生き方から的を外す生き方です。

4.イエスを遣わされた神  1:21

イエス様だけが罪の問題に光を当て、解決できるお方、救うことができるお方だと教えてくださいました。

5.神を信じるヨセフ 1:24

ヨセフは自分の心の中をすべて知り尽くし、自分の名前を呼んで語りかけてくださった神の言葉に信頼しました。イエスと名付けたことは、彼がイエス様の父親になったこと、自分の人生の中に救い主を迎え入れたことを意味します。これは彼の信仰告白でもありました。ヨセフは全部理解したわけではありません。信じるということはわからないことも含みます。ヨセフはイエス様がメシアかどうか確かめようがありませんでした。

私たちは神様がいるのならなぜと思うことがあります。「主は救う」という告白に生き続けることが信仰生活です。信じた後で罪を犯したとしても、イエス様を生活の真ん中において何度でも罪を赦され、悔い改めることを止めない営みが信仰生活です。神様は今日も私たちを愛することをやめず、離れず、一緒に歩いてくださいます。

やがてイエス様をはっきり見ます(黙示録21:1-4)。「主は救う」という救いが完成する時です。この時に、ヨセフも「イエスは主なり」と信じたことが間違えではなかったと知ります。神の国の支配はすでに始まりました(マタイ3:2)が、未だ完成していない「すでに」と「いまだ」のはざまで生きています。だから私たちは神様を信じていても理解できないことや罪に苦しむのです。聖書は約束します。罪が完全に裁かれ、神様が完全に治める時が来ると。

人生には当然与えられると思っていたものが貰えなくてガッカリすることがあります。貰えるはずもなかった神からの救いが、確かに与えられた出来事がクリスマスです。救い主が地上に来られたこと、喜びの知らせが福音です。この喜びをもう一度かみしめて、周りの友だちや家族、知人に伝えていきたいと思います。

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