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2022/1/16  神の前にひざまずく信仰  松尾献主事

聖書 Ⅰサムエル8章1~10節   中心 Ⅰサムエル8章6節

 「王が欲しい」、自分たちの計画こそ最善であると考えるました(5)。1-3節の理由は正当に思えますが、神様の前にはそうではなく、神様への拒絶を意味していました。「わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから」(7)。

Ⅰサムエル16:7に「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。たとえどんな良いこと、信仰的な言葉、決断に見えたとしても、その奥にある心を見ることのできる神様です。何一つ覆い隠せるものはありません。神様は私たち以上に私たちのことを知っておられます。私たちは自分のことは自分がよくわかっていると言いますが、そうではありません。

 大学生にメッセージする前に祈った。「一人ひとり神様のことがわかるように。自分ではなく神様の素晴らしさが現れるように」。絶対に叶う良い祈り、神様は働いてくださるに違いない。自信満々でメッセージを語った。開始5分、最前列の学生が爆睡。他の先生の時は起きていて、分かち合いでは「神様のことがわかった」と言っている。その学生に腹を立てていた時、あることに気づかされた。「一人ひとり神様のことがわかるように」という祈りが答えられている。本来なら喜ぶべき。しかし喜ぶのが難しかった。理由は私のメッセージ中に彼が寝ていたから。

その時神様から大切なことを教えられた気がしました。本当の自分の心です。隠れた自分は神様の栄光よりも誉め言葉、神様の栄光よりも自分の栄光が欲しかったのです。神様はあえて祈りを聞かないという答えを通して本当の罪深い姿を教えてくださいました。

 8節において、神様は民の本当の姿を教えられました。いつも神様を拒絶してきたのがイスラエルの歴史です。どんなに愛しても、良くしても、語りかけても、神様のほうに向かなかったのです。サムエルは主のことばを全部語りました(10)。王を立てるとどんな悲惨な結末が待っているかも語りました(11~)。7-8節では神が王として治めることを拒んでいることも教えました。イスラエルの民はその言葉をどのように受け止めたでしょうか。罪を指摘され、悔い改めたでしょうか。

神様の言葉を拒みました(19-20)。目に見えない神様に人生を導いてもらうのではなく、目に見えてわかりやすく、自分たちの理想に引っ張ってくれる王を求めました。自分たちのやり方が正しいと信じて疑わなかったのです。私たちは自分の考えや理想が正しいと、自分でいっぱいになっている部分を置いて、神様が教えてくださっていることを聞き、思い巡らす隙間を持ちたいと思います。

サムエルはそれができる人でした(6)。「彼の目には悪しきこと」とあります。別訳では「気に入らなかった」。自分の怒り、気に入らないことは正しいのか教えてくださいと神様の前に祈りました。私たちも人生を導いてくださる王である神様に膝をかがめたいと思います。主はそれを喜び、私たちの人生を豊かに導いてくださいます。

創世記49:9-10に王に関する預言が記されています。イスラエルの民が「王が欲しい」と言う前からすでに、神様はイスラエルの民に王を与えることを計画されていました。しかも神様が立てる王は、人となられた神ご自身、イエス様でした。神様はすでに最善のものを用意され、計画され、導かれていました。私たちは自分のプランではなく、神様に信頼し、神様に聞く者でありたいと思います。人生に不満を持つことがありますが、素晴らしい神様が王となって導いてくださっているという恵みを思い起こしたいと思います。

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