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2022/3/27 「失われた者を捜して救う神」 松尾献主事

聖書 ルカ19章1~10節  中心 ルカ19章10節

ザアカイは神様と人との前にきよく正しく生きることを願って名付けられたのに、「罪人」と呼ばれる生き方をしていました(7)。神のかたちに造られたにも関わらず、神を愛し、人を愛して生きていけない、頭ではわかっていてもそのように生きられないザアカイの姿と自分が重なります。そんなザアカイの所にイエス様が来てくださいました。

いちじく桑の木は登りやすく、自分の姿を知られずにいられる場所でした。そこにイエス様が来られて立ち止まり、上を見上げて声をかけられました(4)。ザアカイはイエス様に何も期待していなかったと思います。人生変えてほしい、声を掛けてほしいと思わず、イエス様を見るだけでよかったのです。見たいと会いたいは違います。

 イエス様との交わりを求めず、あきらめていたザアカイの所にイエス様は来られました。「罪人」ではなく「ザアカイ」と、誰も呼んでくれない名前で呼んでくれました。イエス様は全部知っていても「罪人、取税人のかしら」と呼ばず、両親が愛をもって付けた名前で呼びました。神様は私たち一人一人のこともすべて知っておられます。全部知った上で今日も私たちの名前を呼び、何も隠さずに神様の前に出ることを願っておられます。いちじく桑の葉で本当の自分を隠して神様の前に出ようとしても、イエス様は奥にある本当の私たちを全部知っています。それでもなお愛の眼差しは変わらないのです。

5節はどうしても泊まらなければいけないという強い意味を持つ言葉です。家に泊まることは親しい関係を表します。イエス様はすべて知っていてもなお彼と関わることを願ったのです。ザアカイへの「罪人」という指差しはイエス様に移りました(7)。私たちが受けるべき「罪人」という指差しを、十字架上でご自分に向けられることを許されました。大切なあなたが神のもと帰るなら喜んで犠牲を払う、それが十字架の意味です。

ザアカイは奪う人生から与える人生に変えられました(8)。罪を持ったままでいい、では終わりません。完全な愛の影響を必ず受けます。キリストの似姿に変えられることが天の御国に行った時の約束です。神様はこの神の愛に生きる豊かな人生へと今日も私たちを招いています。

イエス様がこの地上に来たのは失われた者を捜して救うためです(9-10)。失われたとは本来神のものだったという意味です。どんなに罪にまみれても、神様から遠く生きたとしても、ザアカイは神に愛され、神の許しのもとに命を与えられた宝の存在でした。だからこそイエス様は彼を救うためにわざわざエリコの町を通り、喜んで犠牲を払ったのです。私たちもかけがえのない一人ひとりです。イエス様は神の愛に生きる素晴らしい人生を与えたいと願い、今日もあきらめずに語りかけます(5)。

黙示録3:20を描いた絵の扉にはドアノブがありません。イエス様は私たちの心の扉を無理矢理こじ開けたりせず、私たちの決断を大切にしてくださいます。心が散らかっているのも罪が山盛りなのも全部知っていて、それでも「今日あなたの家に泊まることにしているから」と言う神がここにおられます。イエス様の愛の呼びかけにどう応答するでしょうか。ザアカイのように大喜びでイエス様を迎え入れる時、神と共に歩む人生が始まります。

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