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2022/4/24 イエスの7つのしるし②「あなたの家への熱意は私を食い尽くす」 ジェシー・ローズ師

聖書 ヨハネ2章13~22節  中心 ヨハネ2章19節

1.イエスの怒りと熱心 

 イエス様の時代、過越の祭の神殿は市場のような雰囲気でした(14)。そこでイエス様の怒りは爆発したのです(15-16)。何がイエス様をそんなに怒らせたのですか。私たちの罪に対する神様の唯一の適切な応答は怒りです(詩篇7:11)。パウロの言葉(エペソ4:26)は私たちへの警告でもあります。私たちは愛するものを偶像化して脅かされると怒ることがあります。私にとっての心の偶像は快適さと状況のコントロールです。子どもが大声を出したり、暴れたりする時に怒りを覚えて叱ります。それは子どもたちの成長を期待してではなく、自分の心の偶像を守るためです。

 怒りを感じた時に自問すべき重要な質問があります。「私が守ろうとしているものは何か? 怒っても愛そうとしているものは何か?」イエス様にも同じ質問をする必要があります。ユダヤ人の指導者たちはイエス様を取り囲んで尋ねました(18)。弟子たちは気づいていました(17、詩篇69:9)。イエス様は神様の臨在と親しい交わりを何よりも大切にしていました。

2.罪と分離の問題

 イエス様の生涯は神様の臨在に支えられていました。天地創造の前から続いていた関係の継続です(ヨハネ1:1-3)。聖書は、神様は唯一のお方であり、父なる神、子なる神、聖霊なる神、三位一体の神だと言います。「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)。神様は私たちを造られた時愛になったのではく、最初から愛するお方として存在しておられました。父なる神、子なる神、聖霊なる神は最初から互いに愛し合い、喜び合う関係でした。神様は孤独ではなく、愛する対象が必要だったわけではありません。三位一体の神様の愛が満ち溢れて私たちは造られたのです。天地創造の前から願われていたことは、愛の交わりに私たちを招き入れることでした。最初の人アダムとエバは何の妨げもなく神様の臨在を楽しむことができましたが、罪のゆえに神様の臨在に単純に入ることができなくなりました。聖書全体を貫いているのは、神の民と共にいるという神様の願いと決意の物語です。

 出エジプト後、神様は天幕の陣営の中心にご自身の臨在を現す場所を定められました。天幕はやがて神殿に代わりました。神殿は罪によって壊れた世界にあって、神様の臨在を経験するための出会いの場でした。しかし、神殿の壁と幕は緊張関係にあることを思い起こさせます。一方においては神の民と一緒にいたいという神様の願いと決心、他方においては罪のために神の臨在に入って行けない制限があることです。

神殿は神の臨在の場所ですが、いくつもの壁がありました。イエス様が神殿に入った時に怒った理由がここにあります。神殿の中に設けられた市場と両替所が、人々を神様から遠ざけるもう一つの壁になっているのを見られたからです。市場は臨在に近づくのを妨げる、人が造り出した壁でした。イエス様は私たちが必要とする神の臨在と、罪によって造られた分離の壁を解決するために来られました。

3.破壊と真の神殿の再建 

「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(19)。ご自分の体のことを指しています。イエス様は私たちが神様の臨在に入ることに熱心でした。そのために十字架で食い尽くされたのです。神の子であり真の神殿であるイエス様が父なる神様の臨在を求めて叫ばれました(マタイ27:46)。身代わりに神様の正義の怒りを経験されたのです。イエス様は私たちの罪のための完全なささげものとなってくださり、神の臨在への道が私たちに開かれました。イエス様を通して私たちの罪は赦され、神殿の幕は真っ二つに避け、壁の岩が裂けました(マタイ27:50-51)。イエス様が死んでよみがえってくださったことのゆえに、神様の愛の交わりに歓迎され、受け入れられたのです。このイエス様を信じて、その交わりに入れていただこうではありませんか。

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