2022/7/10 イエスの7つのしるし⑥「わたしが世の光です」 ジェシー・ローズ師
Title: “I Am the Light of the World” Series: The Seven Signs of Jesus (part 6)
聖書 ヨハネ9章1~7節、24~41節 中心 ヨハネ9章5節
1.「世の光」 ”The Light of the World”
イエス様はこの男性が生まれつきの盲人であったのは神のみわざが現れるためだと説明されました(3-5)。これは大胆な主張です。さらに「わたしが世の光です」と主張されました。
三つの主張:①イエス様はメシアであり、神が遣わされたしもべ王である。②自分は神と等しい者である(「わたしは・・・である(I am・・・)」)。③霊的視力を与えるユニークな光の源である。
註解者たちによると「説き明かされた」(ヨハネ1:18)は「神の物語全体を語る」を意味します。イエス様の生涯、死、復活は神様の救いの物語全体を語っていること、み子であるイエス様を見ることは父である神様を見ることなのです。イエス様こそが霊的な視力の源です。このところでイエス様がされたこと(6-7)は、アダムが造られた時とつながります。アダムは土のちりから造られました。盲人がシロアムの池に行って泥を洗い落とした時、今まで見たことがなかった目が開かれるという新創造が起きたのです。
2.霊的盲目の性質 The nature of spiritual blindness
この物語の三番目の主要な登場人物はパリサイ人と呼ばれる宗教指導者たちです。イエス様が安息日に盲人を癒したというニュースが流れた時、パリサイ人たちを怒り、男性を見つけて質問しました。イエス様を罪ある者として訴えるための理由を探していたのです。しかし癒された人は、イエス様が与えてくださった、驚くような贈り物を認めることしかできませんでした(25)。
パリサイ人たちはその人をコミュニティから追放しました。イエス様はそのことを聞いて彼を見つけ出し、尋ねました。「あなたは人の子を信じますか」(35)。肉体的な盲目が癒された人は霊的盲目も癒されました(36-38)。
パリサイ人たちは常に自分たちが霊的に優っていることを示そうとして、他人の罪をすぐに責め、指摘します。自分たちは盲目であると言われることなど想像できませんでした。彼らは盲人が最終的に見ることのできたものを見ることができませんでした(39-41)。霊的盲目のしるしの一つは自己充足性です。他人の罪を過大評価し、自分の罪と恵みの必要性を過小評価します。恵みが弱さや不十分さを暗示するからです。イエス様は自分たちの生活にある程度助けになるけど、不可欠な存在であるとは見ないのです。あなたは恵みが必要だと感じていますか? イエス様はあなたの目から霊的盲目を取り除きましたか? あなたは「驚くばかりの恵み・・・♪」と歌うことができますか? 今朝、あなたは恵みの必要性を感じますか?
3.どのようにして私たちは見えるようになるのか How we begin to see
ヨハネはわざわざ池の名前の意味を説明しています(7)。ヨハネは関係に気づいてほしいのです。①池で洗うことにより肉体的な目が見えるようになったこと、②「遣わされた者」を信じることによって霊的な目が見えるようになったことです。これが、イエス様が男性を見つけ出した理由です(35)。イエス様は世の光であり、真の霊的視力を与える源です。
バシア(仮名)の証し:若い頃、宣教師の手伝いに雇われた。仕事は「イエス・キリスト」の映画を上映することだった。彼が宣教の働きをする唯一の動機は、報酬がもらえるからだった。ある夜、上映後に一人の高齢女性が近づいて来た。彼女の目に涙があった。「私はなぜあなた方がこんなにイエス様を愛しているのかわかりました。イエス様がこの世界のために命を与えてくださったからです」。彼は、彼女がイエスの中に美しさを見出したことに気づき、その美しさを見出すまで追い求めることをやめない決心をした。
霊的な盲目の泥が取り除かれてイエス様を見る時、私たちもイエス様を美しく、礼拝するに相応しいお方として見るでしょう。もし、みなさんが自分はそのような経験はないと言われるなら、バシアがしたように、美しさをイエス様の中に見出すまで、休まず追い求める決心をしてください。どうぞイエス様のところに行ってください。そしてイエス様に「私の霊的盲目を取り去ってください」とお願いしようではありませんか。
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