2022/9/4 「人に従うより、神に従うべきです」 ジェシー・ローズ師
聖書 使徒の働き5章17~32節 中心 使徒の働き5章29節
福音を宣教した罪で使徒たちは牢屋に入れられました。主の使いが牢の戸を開け連れ出し、同じことをするように言いました。使徒たちはすぐに応答し、夜明けごろ宮に入って教え始めました(19-21)。
26節で力のバランスが指導者たちから使徒たちへ移りましたが、使徒たちは平和的に指導者たちの前に立ちました。それは最高法院の権威への服従を示します。しかし、福音を語らずに最高法院に従うことは神様に対する不服従を意味します。彼らは神に従うことを選び取る決心をしたのです(29)。
30~32節でペテロたちは神様がなされた三つのことをアピールしました。指導者たちはそれを拒絶しました。彼らは神様を拒絶したのです。第一に、彼らは神がイエスを死からよみがえらせたという事実を拒絶しました(30)。第二に、彼らは神様がイエス様を究極の権威と重要な地位に引き上げられたという事実を拒絶しました(31)。第三に、彼らは神の民に与えられた神の聖霊の証しを拒絶しました(32)。
私たちは誰に従っているのでしょうか?
周りに同調する、周囲の期待に応えるという形での服従を感じていないでしょうか。他の人に認められたい、受け入れられたいという願いが私たちの生活を動かしていないでしょうか。周囲に良い印象を与えたいという不健全な願望を持っていないでしょうか。それを失うことを恐れて、イエス様への信仰を隠していないでしょうか。神様に従い、応答しているはずの私たちが、神様を犠牲にして他の権威のもとに生きようとしているのです。
どうしたらそのような生き方から自由になり、恐れない心を持つことができるのでしょうか。ムチで打たれたり脅されたりしたことは使徒たちには喜びでした。彼らは失望しませんでした。彼らは神様に従い、前進することをやめませんでした(41-42)。答えは、力と確信のリソースを外側と内側に持つことです。
1.力と確信の外側のリソース(30)
「木にかけて殺した」は申命記の「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」(21:23)と結びつきます。油注がれたメシアがどうして神様にのろわれることができたのでしょうか。なぜペテロはこのように主張したのでしょうか。
答えは31 節です。大祭司の仕事は必要なくなりました。イエス様は一度だけ十字架で死に、私たちが受けるべき呪いを受けてくださいました。イエス様の完全な義を私たちは代わりに受け取ったのです。神様は私たちのうちに罪や呪いを見ることはありません。
私たちが神様に受け入れられているという確信は、自分の行いや生き方に基づくものではありません。周囲の期待や認められることとは関係なく、イエス様が完全に従ってくださったイエス様の従順、義によって、私たちは神様に受け入れられているのです。神様のくださる恵み、義は私たちの行いや生き方が生み出すものではありません。イエス様のなされたことの中にある限り、他の人に受け入れられるために振り回される生き方から自由になっていくのです。私たちの自由、解放はイエス様にあって与えられています。
2.力と信頼の内側にあるリソース(32)
信仰をもってイエス様に応答し、従うことによって聖霊を受けます。聖霊が私たちのうちに住み、福音のメッセージを経験させ、確認させてくれます。聖霊こそが、福音が私たちのうちで生きたものとなるのを可能とします。聖霊こそが、イエス様において明らかにされた神の恵みに応答して生きる生活を可能にします。
私たちに力と確信を与えてくれる外側のリソースとして福音、内側のリソースとして聖霊が与えられています。使徒たちのような大胆な生き方を可能にするためです。この二つのリソースを用いさせていただこうではありませんか。その時に私たちは使徒たちのように勇気が与えられ、もっと大胆に進んでいくことができるのです。
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