2022/10/9 シャローム教会の6本柱①キリストにあって、だれもが愛し愛される教会 横田法路師
聖書 ヨハネ13章1~15節 中心 ヨハネ13章34-35節
ちょっとしたことで破れ、傷つくのが人間の交わりです。十字架が真ん中に立つ時、破れを繕い、赦しと和解の力を与えられます。
「互いに愛し合いなさい」:これがキリストの弟子のバッジ(13:34)
弟子であるしるしは愛です。これは十二弟子に語られましたが、彼らは互いに愛し合うのが難しく、競争心、妬み、争いがあり、考え方も違いました。イエス様にとって大事なのは、同じ考えで働きが進むことより、弟子たちが愛の人に成長することでした。一緒に生活することで自分の愛のなさに気づき、イエス様に愛を求め、キリストの似姿に成長していくのです。主は愛する者を訓練されます。
「わたしがあなたがたを愛した」(13:34)
私たちには愛がありません。でもイエス様が私を愛してくださった、この愛を経験する時、理解する時、聖霊によってその愛が私たちを通して流れるようになります。
どんなふうにイエス様は愛された?(13:1)
①最後まで愛される愛(時間的最後まで)
私たちは途中でギブアップしそうになりますが、イエス様はそうではありません。裏切る弟子たちを最後まで愛し抜いてくださいました。
②極みまで愛される愛(程度的最後まで)
さまざまな壁を越え、どん底まで下りてきてケアしてくださいます。キリストの愛の極みが、私たちの罪の身代わりとしての十字架の死です。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。
肉体的、精神的、経済的、様々な苦しみがあります。最大の苦しみは神様に捨てられたのではないかという苦しみです。捨てられるはずのないお方が父なる神様に捨てられる経験をされました。神に捨てられた、愛されていないと苦しむ人のところに下るためです。その罪を背負い、赦し、永遠のいのちを与えるためです。イエス様は極みまで愛してくださいました。十字架において人間の最暗黒と思えるところまで下りてくださり、よみにまでくだられました。それは私たちを一人にしないで救うためです。
私たちの交わりの中心に十字架が立っていますか。十字架が見える時、私たちのうちに神の愛が注がれ、破れた関係は回復へと向かっていきます。十字架の愛がどんな人も慰め、励まします。愛の出どころは十字架です。
二年半、ある方と関わってきた。感謝だったこともいっぱいあるが、心を槍で刺されることが何度もあった。そのたびに十字架のもとに行くことができた。私はその人以上にイエス様を槍で突き刺していたことが示された。そんな私を赦してくださるイエス様の愛を何度も思い起こし、立ち上がる力が与えられた。
十字架に戻ろうではありませんか。教会が愛し愛されることは美しいけど、十字架抜きには幻想でしかありません。十字架が立つ時、現実となります。十字架の中で主の愛を受け取り、赦しを受け取っていこうではありませんか。
タグ: 2022/10/9礼拝